富本銭と和同開珎はどっちが最古?教科書が変わった真相と最新学説

目次
富本銭と和同開珎はどっちが最古?教科書が変わった真相と最新学説
富本銭と和同開珎はどっちが最古?教科書が変わった真相と最新学説
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 富本銭と和同開珎はどっちが最古?教科書が変わった真相と最新学説

学校教育の現場で「日本最古の貨幣は708年の和同開珎」と教記された世代にとって、現在の歴史教科書を開いたときの衝撃は小さくありません。1990年代末に奈良県明日香村で起きた大発見以降、古代史の常識は音を立てて刷新され、入試問題や歴史ファンの議論においても「富本銭(ふほんせん)」と「和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)」の立ち位置は大きく整理されました。

両者のうちどちらが本当に「日本最古」なのか、なぜかつての通説が覆ったのか。さらに、出土当時から激論が交わされた「まじない銭説」の行方や、実質的な価値を持っていた「無文銀銭(むもんぎんせん)」との関係性を含め、最新の研究成果から古代国家の貨幣戦略の深層を解き明かします。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:公鋳の銅銭として日本最古なのは、1999年の飛鳥池遺跡発掘で鋳造年代(683年頃)が確定した「富本銭」である。
  • 要点2:教科書の記述は「最古の銅銭=富本銭」「全国規模で流通した最初の流通貨幣=和同開珎(708年)」と役割ごとに書き分けられている。
  • 要点3:古代国家は貴金属の価値に依存する実質貨幣(無文銀銭)から、国家権力が価値を保証する名目貨幣(銅銭)への大転換を画策していた。

【日本最古の貨幣はどっち?】教科書の記述が変わった決定的な理由と真相

「日本最古の貨幣はどちらなのか」という問いに対する結論は、貨幣の定義によって表現が分かれます。「国家が公に鋳造した日本最古の銅銭」という枠組みであれば富本銭が正解であり、「国家の手で発行され、全国的な規模で流通網に乗った貨幣」という条件をつけるならば和同開珎となります。

長年、日本の歴史教育では708年に発行された和同開珎が「日本最古の貨幣」として不動の地位を築いていました。この常識が根底から覆る契機となったのが、1999年1月に奈良文化財研究所(旧奈良国立文化財研究所)が発表した飛鳥池遺跡の発掘調査成果です。飛鳥寺の南西に位置する工房跡から、富本銭そのものだけでなく、鋳造途中の「銭樹(枝状に繋がった状態の銭)」や鋳型、溶けた銅のカスがまとまって出土しました。

この層から出土した木簡の年代測定により、これらの鋳造遺構が天武朝(7世紀後半・680年代)のものであると科学的に特定されました。これは『日本書紀』の天武天皇12(683)年4月15日条に記された「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ」という詔勅の記述と完全に合致します。文献史料の記述と考古学的物証が完璧に符合した瞬間であり、文部科学省の検定教科書も2000年代以降、記述の改訂を余儀なくされました。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:imgcp.aacdn.jp)

富本銭と和同開珎の違いを徹底比較|発行年代・目的・流通範囲の決定打

両者の性格の違いを浮き彫りにするため、鋳造年代、主導者、出土状況、貨幣としての機能面を客観的な指標で比較します。

項目詳細・数値データ一般的な基準・相場編集部の見解・評価
初鋳年代と主導者富本銭:683年頃(天武天皇)
和同開珎:708年(元明天皇)
25年の時代差(飛鳥時代末期と奈良時代初期)天武天皇の国家確立構想が先鞭をつけ、平城京造営期の元明朝が制度化させた。
デザイン・文字意匠富本銭:縦に「富本」、左右に七星文
和同開珎:時計回りに「和同開珎」4文字
唐の「開元通宝(621年鋳造)」を模範とする円形方孔富本銭は道教的世界観、和同開珎はより完成された唐風の律令通貨形式を採用。
主な出土地域と分布富本銭:飛鳥地域・平城京周辺が中心
和同開珎:畿内を中心に東北から九州まで全国網羅
出土総数は和同開珎が圧倒的多数(数千枚規模)富本銭は畿内中枢での試験的・限定的運用にとどまり、和同開珎は国策として全国波及した。
主要な鋳造目的富本銭:国家の威信誇示・初期流通の試行
和同開珎:平城京遷都の建設財源調達・官人給与
古代国家の財政再編と労働力動員手段和同開珎は蓄銭叙位令(711年)など法制度とセットで強制流通を図った点が異なる。

両者の決定的な差異は、「流通を担保する統治機構の完成度」にありました。富本銭が鋳造された天武朝は、壬申の乱を経て天皇親政を固め、飛鳥浄御原令の編纂に着手した「律令国家の黎明期」でした。一方、和同開珎が世に出た708年は、大宝律令(701年)の施行後であり、武蔵国から純度の高い銅が献上されたことを祝して元号そのものを「和同」へと改元するほど、国家を挙げた巨大プロジェクトとして推進された背景があります。

「まじない銭説」はなぜ覆ったのか?飛鳥池遺跡の発掘と最新学説

飛鳥池遺跡の発掘以前、富本銭は江戸時代の古銭収集家の記録や、一部の寺院跡から見つかる程度の極めて珍しい存在でした。当時の学界で有力だったのが「厭勝銭(えんしょうせん=まじない用の銭)」説です。

富本銭の表面には「富本」の文字を挟んで上下に3個ずつ、計6個(あるいは中央の孔を含めて北斗七星を表す)の突起「七星文」が配置されています。七星文は道教において邪気を祓い、国家や個人の安寧を守護する呪術的シンボルです。貨幣名とされる「富本」も、中国の古典『文子』に登場する「富国之本」に由来すると解釈され、国家鎮護や埋納儀礼のために鋳造された非流通用の記念メダルに過ぎないのではないかと考えられていたのです。

しかし、飛鳥池遺跡の調査では、不良品を破砕した痕跡や、溶けた金属を流し込む鋳型が大量に出土しました。工房の規模は国家機関による組織的・計画的な大量生産ラインを示しており、単なる儀礼用品の製造施設とは到底考えられない実態が判明しました。

出土状況の分析が進んだ現在では、「富本銭は国家が本気で流通させる意図を持って鋳造した公鋳貨幣であり、その一部が後世にまじない用として転用された」という解釈が学界の主流を占めています。貨幣という概念自体が未成熟だった7世紀末、貨幣に呪術的・宗教的な権威を持たせて民衆に信用させようとした試みこそが、あの独特な意匠を生み出したといえます。

活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:imgcp.aacdn.jp)

無文銀銭の存在と古代貨幣の価値変遷|なぜ銅銭が必要だったのか

富本銭と和同開珎の論争を理解する上で外せないのが、文字の刻まれていない銀の塊である「無文銀銭(むもんぎんせん)」の存在です。

飛鳥時代の遺跡からは、直径約3センチ、重さ約8〜10グラム前後の円形銀板が複数出土しています。これは天武朝よりも前、7世紀前半から中葉にはすでに実質的な価値を持つ「秤量貨幣」として、有力豪族間や対外交易の決済に使用されていたと考えられています。銀そのものに確固たる貴金属価値があるため、国家の権威がなくとも通用する実質貨幣でした。

ここに天武天皇が発した「必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ」という命令の本質があります。銅銭は、原材料である銅の価値以上の価値を法によって付与する「名目貨幣(信用貨幣)」です。もし国家が銅銭を人々に使わせることができれば、国家は安価な素材から莫大な富(差益)を生み出し、国家主導の経済秩序を構築できます。

しかし、民衆や地方豪族は実質価値のない銅の円盤を容易には受け入れませんでした。貴金属としての裏付けがある銀を好む社会に対し、天武朝は力づくで銅銭流通を命じましたが、結果として富本銭の全国流通は定着しませんでした。無文銀銭から富本銭、そして和同開珎に至るプロセスは、「モノ自体の価値」から「国家の信用」へのパラダイムシフトをめぐる権力と社会の壮絶なせめぎ合いの歴史でもありました。

皇朝十二銭の盛衰と古代日本のマネーサプライ|国家が挑んだ信用の限界

和同開珎の発行によって本格的なスタートを切った日本の公鋳貨幣は、その後約250年間にわたり発行され続けました。これらを総称して皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼びます。

朝廷は711年に「蓄銭叙位令」を制定し、一定額以上の銅銭を蓄えた官人に位階を与える優遇策をとるなど、貨幣の普及に躍起になりました。平城京の市(東市・西市)では銭貨での売買が強制され、都の造営に従事する工夫への給与も和同開珎で支払われました。しかし、この国家主導の貨幣政策は、やがて財政難の泥沼へと引きずり込まれていきます。

銅の産出量が激減した朝廷は、新しい貨幣を発行するたびに「新銭1枚を旧銭10枚と等価とする」という強引なデノミネーションを繰り返しました。さらに改鋳のたびに銭貨のサイズは小さくなり、銅の純度は低下して鉛の含有量が増加しました。最後の12番目となった「乾元大宝(958年)」に至っては、文字が潰れ、もろくて割れやすい粗悪品に成り果てていました。

当然ながら、市場の信用は完全に失墜しました。10世紀後半、朝廷が銭貨の発行を停止すると、日本社会は再び米や絹、布などを交換手段とする「実物貨幣経済」へと逆戻りしてしまいます。国家が権力だけで信用を担保しようとした古代の貨幣実験は、経済の実勢を無視した改鋳を重ねた結果、一度完全に破綻を迎えたのです。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:マイナビニュース)

【プロの結論】古代貨幣の歴史から読み解く「信用創造」の本質と学び直しの指針

富本銭と和同開珎の歴史を現代の視点から振り返ると、私たちが日常的に使っている「通貨」の本質が浮かび上がってきます。お金とは単なる金属や紙の切れ端ではなく、発行主体に対する「共同体の信用」というフィクションの上に成り立っています。天武天皇や元明天皇が挑んだのは、まさにこのフィクションを古代日本に定着させる壮大な社会実験でした。

歴史の学び直しにおいて、このテーマに触れる際の判断基準を提示します。

【このテーマの探求に向いている人】
単に年号や名称を一問一答で記憶するのではなく、「なぜその政策が打たれたのか」「当時の社会構造や心理的抵抗はどうだったのか」という因果関係を楽しめる教養派の読者です。古代の貨幣改鋳の失敗や信用の崩壊プロセスは、現代の中央銀行の金融政策やデジタル通貨(CBDC)、暗号資産の信用メカニズムを理解するための最高のリテラシー教材となります。

【深掘りをおすすめできない人】
「歴史の正解は白か黒かの一点のみで知りたい」と考える人には不向きです。「最古は富本銭か和同開珎か」という議論自体が、考古学の進展や貨幣の定義によってグラデーションを持っています。確定的な単一の事実だけを暗記の道具としたい場合、学説の揺らぎや制度の過渡期における複雑さは煩雑に映る可能性があります。

【富本銭と和同開珎】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:高校や中学の歴史の試験では、日本最古の貨幣としてどちらを書けばよいですか?
A1:設問の文章に厳密に従ってください。「7世紀後半の天武朝に作られた、日本最古の公鋳銅銭」と問われれば「富本銭」です。一方で「708年に発行され、全国的に流通した貨幣」あるいは「唐の開元通宝に倣って作られ、流通を意図した本格的貨幣」と指定されている場合は「和同開珎」が正解となります。現在の主要教科書では両者が併記されており、出題側も条件を明確に指定する形式が一般的です。

Q2:無文銀銭がもっと古いなら、なぜ無文銀銭が「最古の貨幣」にならないのですか?
A2:無文銀銭は文字が刻まれておらず、国家が公に定めた統一規格や価値保証を持たない「秤量貨幣(素材そのものの重量で取引する銀塊)」としての性格が強いためです。学術上、「国家が公認の鋳造所で特定の文字や意匠を刻んで発行した統一規格の貨幣(公鋳貨幣)」という厳密な定義を用いる場合、無文銀銭は除外され、富本銭が最古と位置づけられます。

Q3:なぜ天武天皇はそこまでして銅銭(富本銭)を造りたかったのですか?
A3:最大の目的は、天皇を中心とする強力な中央集権国家の威信を内外に示すことでした。当時、東アジアの超大国であった唐は自前の銅銭「開元通宝」を広く流通させていました。律令法、都城(藤原京)、そして独自の国家貨幣を持つことは、日本が一等国として唐と対等に渡り合うための絶対条件だったのです。

まとめ:2枚の古代コインが問いかける「お金の正体」

富本銭と和同開珎の歴史を紐解くと、教科書の記述が変わった背景には、単なる発掘調査の偶然を超えた国家建設のドラマが存在していたことがわかります。天武天皇が目指した国家主導の名目貨幣の理想(富本銭)は、元明天皇の代に至って律令制度のバックボーンを得て社会実装(和同開珎)へと結実しました。

金属の重みそのものに価値があった時代から、国家の定めた「印」に価値を信じ込ませる時代へ。飛鳥から奈良の激動期に作られた2枚の小さな青銅貨は、私たちが当たり前のように受け入れている紙幣やデジタルマネーの根底にある「信用」という不確かで強大な力を、今も静かに問いかけています。 (出典: 富本銭と和同開珎(Yahoo!ニュース)

富本銭と和同開珎
富本銭と和同開珎
富本銭と和同開珎