ドリフターズ初代メンバーの真相!坂本九の在籍と分裂劇の全貌
日本のお笑い史に金字塔を打ち立てた国民的グループ「ザ・ドリフターズ」。昭和から令和の現代に至るまで、いかりや長介、加藤茶、志村けんらのコントは世代を超えて愛され続けています。しかし、彼らがかつて本格派の音楽バンドとして産声を上げ、その初代メンバーにあの国民的歌手・坂本九が在籍していたという歴史的事実を知る人は、決して多くありません。
さらに、グループが国民的人気を獲得する直前の1964年には、リーダー交代をめぐる深刻な確執から「メンバー大量脱退・分裂騒動」という最大の危機を迎えていました。志村けんやいかりや長介のイメージが強いドリフターズは、いかにして誕生し、誰の手によって創設されたのか。当時の証言資料やメンバーの手記を丹念に紐解きながら、知られざる創設期の歩みと激動の人間ドラマを徹底解剖します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:ドリフターズのルーツは1956年結成のカントリー&ウエスタンバンド「サンズ・オブ・ドリフターズ」であり、初代リーダーは後の第一プロダクション創業者である岸部清。
- 要点2:1958年にはデビュー前の坂本九がボーカルとして在籍。その後「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」を経て、1964年のリーダー交代を契機に小野ヤスシら主力4名が脱退し「ドンキーカルテット」を結成する分裂劇が発生した。
- 要点3:残されたいかりや長介と加藤茶が、高木ブー、仲本工事、荒井注をスカウトして新生ドリフを再建。後に荒井注の脱退と志村けんの加入を経て、伝説のバラエティ『8時だョ!全員集合』の黄金期へと昇華した。
【創設期の衝撃】ドリフターズ初代メンバーは誰?坂本九も在籍した草創期
お茶の間の誰もが知る「お笑いコント集団」としてのドリフターズの姿は、彼らの長い歴史における“第二幕”に過ぎません。その源流は、昭和30年代初頭のロカビリー&ウエスタン・ブームの渦中にありました。
1956年頃、名門バンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」や「東京ウエスタンボーイズ」のメンバーが合流する形で、前身となるサンズ・オブ・ドリフターズが結成されます。その創設者であり初代リーダーを務めたのが、ベーシストの岸部清でした。当時のバンドボーイやプレイヤー仲間から腕利きのミュージシャンが集い、米軍キャンプやジャズ喫茶を主戦場とする本格的な演奏活動を展開していたのです。
そして驚くべきことに、1958年頃には若き日の坂本九がボーカルとして在籍していました。当時、日本大学高校を中退して音楽の世界に飛び込んでいた坂本九は、ドリフターズのステージで甘い歌声と卓越したリズム感を披露し、ロカビリーファンの間で注目を集めていたと当時の音楽関係者は証言しています。しかし、坂本九のずば抜けたスター性に目をつけた大手芸能事務所・渡辺プロダクションの引き抜きや、ロックビリー・バンド「水原弘とザ・ハイ・ソックス」への移籍を経て、彼はソロ歌手として「上を向いて歩こう」で世界的な大成功を収める道へと進んでいきました。
創設期のドリフターズは、後のコメディ路線とは一線を画す、気鋭のミュージシャンたちが入れ替わり立ち替わり腕を競い合う梁山泊のような音楽集団だったのです。
知られざる歴代変遷|「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」から分裂騒動へ
初代リーダーの岸部清がバンドを離れた後、グループはギター奏者の桜井輝夫を2代目リーダーに据え、グループ名を「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」へと改称します。この時期に加入したのが、類まれな司会・トーク能力と音楽センスを持っていた小野ヤスシ、ベースのジャイアント吉田、バイオリン・ギターの飯塚文雄、ドラムの猪熊虎五郎といった面々でした。
小野ヤスシを中心としたコミックソングやステージ上でのコミカルな掛け合いが観客に大ウケし、バンドは純粋な音楽演奏から「コミックバンド」へと大きく舵を切ることになります。しかし、桜井輝夫は持病や芸能マネジメントへの専念を理由に引退を決意。ここでグループの運命を大きく変える人物がスカウトされます。当時「クレイジー・ウエスト」などで卓越したウッドベースの演奏技術を誇っていたいかりや長介(当時は碇矢長一)と、その弟分であったドラマーの加藤茶(当時は加藤英文)でした。
当時の歴史的変遷を整理すると、以下の表のように目まぐるしいメンバー交替と路線転換が行われていたことが客観的データからも明白です。
| 時代区分・バンド名 | 主な主要メンバー | 主な活動形態・音楽性 | 歴史的意義・グループの転換点 |
|---|---|---|---|
| 草創期(1956年〜) サンズ・オブ・ドリフターズ | 岸部清(初代リーダー)、井上ひろし、坂本九 ほか | カントリー&ウエスタン、初期ロカビリー | 米軍キャンプやジャズ喫茶で腕を磨いた本格派演奏集団。坂本九を輩出。 |
| 黎明コミック期(1962年〜) 桜井輝夫とザ・ドリフターズ | 桜井輝夫(2代)、小野ヤスシ、ジャイアント吉田、飯塚文雄、猪熊虎五郎、いかりや長介、加藤茶 | コミックソング、ステージトークショー | 小野ヤスシのトーク力で人気爆発。いかりやと加藤が合流し路線が確立。 |
| 分裂・再建期(1964年〜) 新生ザ・ドリフターズ | いかりや長介(3代)、加藤茶、荒井注、高木ブー、仲本工事 | 音楽コント、本格ステージショー | 小野らの脱退劇を経ていかりや体制が確立。ビートルズ来日公演の前座を担当。 |
| 黄金期(1974年〜) 国民的コントグループ | いかりや長介、加藤茶、高木ブー、仲本工事、志村けん | 公開生放送コントバラエティ、音楽活動 | 荒井注の脱退と志村の昇格。『全員集合』で視聴率50%超えを記録。 |
【泥沼の分裂騒動】小野ヤスシ脱退といかりや長介リーダー就任の真相
ドリフターズの歴史において、最もスキャンダラスかつ最大のドラマと呼べるのが、1964年12月のメンバー分裂騒動です。
引退を決意した2代目リーダーの桜井輝夫は、次期リーダーとしてグループの実質的な人気を牽引していた小野ヤスシではなく、最年長で音楽理論と舞台進行に厳しいいかりや長介を3代目リーダーに指名しました。この決定が、グループ内に決定的な亀裂を生むことになります。
小野ヤスシ脱退理由と「ドンキーカルテット」結成の経緯
当時、バンドのフロントマンとして観客を沸かせていた小野ヤスシらにとって、後から加入してきたばかりのいかりや長介がリーダーの座に就き、ギャラ配分から舞台のネタ順に至るまで強権的な仕切りを始めたことは受け入れがたい屈辱でした。いかりや自身も後年の自著『だめだこりゃ』(新潮社)において、当時の自身の頑迷さや衝突を率直に認めています。
「自分たちが汗を流して作ってきた人気を、新参者のいかりやに牛耳られてたまるか」――そうした反発が臨界点に達した1964年末、小野ヤスシ、ジャイアント吉田、飯塚文雄、猪熊虎五郎の主力4名は、いかりや長介を追い出してグループを奪還するクーデターを画策しました。しかし、渡辺プロダクション幹部は「いかりや支持」を表明。策略が露見した小野らは、一斉脱退という強硬手段に出るほかありませんでした。
脱退した小野ヤスシらは直後にドンキーカルテットを結成。コミカルな音楽芸と洗練されたステージングでフジテレビ系『東京演芸まつり』等で大ブレイクを果たし、一時は本家ドリフターズを凌駕するほどの圧倒的人気を博したのです。
絶体絶命のいかりや長介と加藤茶の決意
一方、主力メンバーが一夜にして去り、手元に残されたのはいかりや長介と、いかりやを慕って残留した若干21歳の加藤茶のわずか2名だけでした。すでに正月興行のスケジュールは埋まっており、即座にメンバーを補充しなければ契約違反で芸能界から追放されかねない極限状態でした。
そこでいかりやが奔走してかき集めたのが、かつてバンド仲間として腕を知っていた高木ブー(元『シャープ・ホークス』等のピアニスト・ギタリスト)、学生時代からのバンドマン仲間で抜群の身体能力を持っていた仲本工事、そしてピアノが弾けて英語が堪能な年長の荒井注でした。奇跡的な突貫工事で結成されたこの5人組こそが、後に日本中を揺るがす「黄金のドリフターズ」の原形となったのです。

一般に知られていない盲点とネットの誤解
現代のネットコミュニティやSNS上では、ドリフターズの創設期についていくつかの根強い誤解や都市伝説が語り継がれています。芸能史の検証データを元に、それらの真相を正しく紐解きます。
誤解1:「最初からお笑い芸人を目指して結成された」
これは完全な誤解です。彼らのアイデンティティはどこまでも「腕利きのジャズ&ロカビリー・ミュージシャン」でした。1966年にビートルズが日本武道館で初来日公演を行った際、オープニングアクト(前座)を務めたのはドリフターズです。わずか1分強のステージ演奏(曲目:「のっぽのサリー」)でしたが、満員の武道館を唸らせるタイトなロックンロールを披露した事実は、彼らが一流のバンドであった動かぬ証拠です。
誤解2:「小野ヤスシといかりや長介は生涯絶縁状態だった」
激しい分裂劇から「二人は死ぬまで口を利かなかった」という噂がネット上で散見されますが、これも事実ではありません。独立直後の数年間こそ業界内の緊張関係が続いたものの、1970年代以降、双方がそれぞれのポジションで成功を収めたことで雪解けを迎えました。晩年にはテレビ特番の企画で対談が実現し、酒を酌み交わしながら当時の若気の至りを笑い合って語り合う姿が放送されています。小野ヤスシは当時の回想で「長さんという強烈な男がいたからこそ、自分たちも死に物狂いで頑張れた」と、いかりやの手腕を讃える言葉を残しています。
誤解3:「荒井注の脱退理由はメンバー不仲だった」
1974年に荒井注が脱退し、付き人見習いだった志村けんが正メンバーに昇格した際も不仲説が取り沙汰されましたが、主因は「体力の限界と燃え尽き」でした。毎週土曜日の生放送コントのために木曜・金曜と徹夜同然で稽古に追われるいかりや長介の完璧主義に、当時40代半ばに差し掛かっていた荒井の肉体と精神が悲鳴を上げたためです。脱退後も荒井注はドリフの特番にゲスト出演するなど、良好な関係を維持し続けました。
【実態検証】初代メンバーたちの「その後」と2026年現在の評価
ドリフターズの創設に関わった初代メンバーたちは、グループを去った後どのような人生を歩んだのか。その足跡を辿ると、日本のエンターテインメント産業に極めて巨大な影響を与え続けていたことが分かります。
初代リーダー・岸部清の華麗なる転身
サンズ・オブ・ドリフターズの初代リーダーであった岸部清は、バンド引退後に芸能プロモーターへと転身。1960年代に大手芸能事務所第一プロダクションを創業しました。岸部は類まれなプロデュース力を発揮し、小林幸子、森口博子、新居昭乃ら数多くの国民的歌手・タレントを世に送り出し、日本音楽事業者協会の要職を歴任。日本の芸能界の重鎮として確固たる地位を築き、2019年2月に88歳で惜しまれつつこの世を去りました。
小野ヤスシとドンキーカルテットのレガシー
小野ヤスシはドンキーカルテット解散後も、軽妙洒脱なトークと確かな知性を活かして名司会者・タレントとしてマルチに活躍。『スターどっきり(秘)報告』のレポーターやバラエティの司会で昭和・平成のお茶の間を沸かせ、2012年に73歳で逝去するまで生涯現役のエンターテイナーを貫きました。
2026年現在のリスナー評価と再評価の潮流
YouTubeやストリーミング配信が定着した2020年代半ば以降、当時の演奏音源やアーカイブ映像に触れた若いZ世代・α世代の間で、「ドリフのベースラインとグルーヴが凄すぎる」「単なるお笑いではなく、超絶技巧のファンク/ソウルバンドだった」という驚きと称賛の声が急増しています。お笑いの下敷きに圧倒的な音楽的教養とリズム感があったからこそ、あのようなミリ秒単位の緻密なスラップスティック・コントが成立していたという事実が、半世紀以上の時を経て正当に再評価されているのです。
【プロの結論】組織マネジメントと集団力学から見出すべき教訓
ドリフターズの創設期から黄金期に至る歩みは、現代の企業組織やチームビルディングにおける「リーダーシップと集団力学」の極めて示唆に富むケーススタディです。
合議制による和気あいあいとした人気バンド(小野ヤスシ体制)から、ビジョンを一本化し妥協を許さないトップダウン型の品質統制(いかりや長介体制)へと舵を切った瞬間、激しい組織摩擦とメンバーの流出は避けられませんでした。しかし、その強烈な「痛み」を伴うスクラップ&ビルドがあったからこそ、全員が共通の目標に向かって極限まで芸を磨き上げるプロ集団が完成したのです。
仲良しグループを脱却し、時代を超える強固なブランドを築き上げるためには、時に明確な権限委譲と痛みを伴う組織再編が必要であるという事実を、昭和のドリフターズ分裂劇は雄弁に物語っています。

【ドリフターズ 初代 メンバー】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ドリフターズの本当の初代リーダーは誰ですか?
A1:1956年頃に結成された前身バンド「サンズ・オブ・ドリフターズ」の初代リーダーは、ベーシストの岸部清です。岸部はバンド脱退後、大手芸能事務所「第一プロダクション」を創業し、芸能界の重鎮として多くのスターを育成しました。いかりや長介は3代目リーダーにあたります。
Q2:坂本九さんはなぜドリフターズを短期間で脱退したのですか?
A2:坂本九は1958年頃にボーカルとして在籍していましたが、当時沸き起こっていたロカビリーブームの中でその抜きんでたスター性が大手芸能事務所(渡辺プロダクション等)の目に留まり、「水原弘とザ・ハイ・ソックス」への移籍やソロ歌手としてのスカウトを受けたためです。その後、ソロ歌手として世界的大ヒットを記録しました。
Q3:小野ヤスシさんたちはなぜドリフターズを脱退したのですか?
A3:2代目リーダー桜井輝夫の引退に伴い、後任としていかりや長介がリーダーに指名されたことへの反発が最大の引き金です。いかりやの厳格な統制とギャラ配分の方針に異を唱えた小野ヤスシら主力4名がいかりやの追放を試みましたが失敗し、一斉脱退して新グループ「ドンキーカルテット」を結成しました。
Q4:志村けんさんは何代目のメンバーになるのですか?
A4:志村けんは、初代からの通算で数えると数多くの入れ替わりを経た後期メンバーとなりますが、新生ザ・ドリフターズの「5人組コントグループ」としては、1974年に体力の限界を理由に脱退した荒井注の後任として正式昇格した最後のレギュラーメンバーです。高校卒業前から付き人見習いとして下積みを経験していました。
まとめ:昭和芸能史の奇跡が現代に問いかける組織の生命力
「ザ・ドリフターズ」の歴史を初代メンバーの視点から振り返ると、そこには単なる懐かしのお笑い番組という枠を超えた、昭和エンターテインメントの熱狂と葛藤のドラマが凝縮されています。
本格派ウエスタンバンド「サンズ・オブ・ドリフターズ」を率いた初代リーダー・岸部清、若き日に才能を閃かせた坂本九、コミックバンドとしての礎を築いた小野ヤスシと桜井輝夫、そして組織崩壊の淵からグループを立て直し国民的巨星へと導いたいかりや長介と加藤茶。数多の才能が衝突し、分裂し、再編成を繰り返したからこそ、半世紀以上が経過した現在も色褪せない奇跡のコントカルチャーが結実しました。
彼らが残した足跡は、単なる芸能史の1ページにとどまらず、逆境の中で組織がいかにして生き残り、独自の価値を創造していくべきかという普遍的な問いへの力強い答えを示しています。 (出典: ドリフターズ 初代 メンバー(Yahoo!ニュース))